2018/08/28 22:42

──まず、名前を聞いていいかな?私は、浅生華恵。

メモ用紙を取って、字を書いてみせる。その横に彼が自分の名前を書いた。「李家華」。

──リー・ジャーホア。ハナエさん、同じ字がありますね。

私は何度か読み方を聞き返したが、難しかったので、諦めて李さんと呼ぶことにした。

李さんは台湾から働きに来ていて、ここから都心方面にあるコンピュータ関連の会社に、契約社員として勤めていた。最寄り駅から自宅に帰る途中、いきなり背中を刃物か何かで刺され、意識を失ったのだという。犯人の顔は見ておらず、気がついたら、通り沿いの民家の庭に倒れていたのだそうだ。生きていることがわかったらまた襲われるのではないかと思い、自宅まで急いで帰ったが、いつも持ち歩いていた所持品がすべてなくなっていた。家の鍵もそこに入っていた、はずだった。

──それは、強盗じゃないかなあ。怪我もしてないようだし、刺されたっていうのは勘違いで。

だが李さんは頑として譲らない。絶対に刺された、痛かった、血が出るのを見たと涙目で言い張る。

──そもそも、どうしてこんな時間に、あんな裏道を歩いてたの?すぐ隣に明るい道があるのに。

李さんが襲われた場所というのはいわゆる裏通りで、昼でも薄暗い、人通りの少ない所だった。何か起きたという話は聞いたことがないが、それでも夜にひとりでフラフラ歩く道じゃない。

──仕事のことで、考え事をしていました。あの道を通ると、いいアイデアが出るのです。
──ああ…。

それは私にも思い当たることがあった。
コンピュータ関連なら、私は元同業者だ。仕事柄なにかとややこしい問題に直面して、何日もそのことばかり考える場面は多い。それで、それぞれが独自の「おまじない」を持っていたりするのだ。私はそういう時、よく最寄り駅にある奇妙なモニュメントを眺めていた。

…まぁ、そんな事をしていたのも一昨年までで、退職してここに引っ越してからは、近所のコンビニエンスストアで働いていた。

そう。私はもう1年以上、ここに住んでいるのだ。

それについても李さんは、ここは自分の家だと言って引き下がらない。埒が明かないので、私はアパートの契約書を引っ張り出す羽目になった。

──ね?2017年から私は正式にここに住んでるの。動転して、勘違いしてるんじゃない?
────2017年?

李さんは不思議な顔をする。

──あの、今年は何年?

あれっ?なんだか、めんどくさいことになる予感がする。私は壁にかけてあるカレンダーを指差して、言った。

──2018年。

李さんの目が泳いでいた。一生懸命に考えを整理しようとしているらしい。やがて李さんが、中国語で何かブツブツ言い始めた。

──どうかした?
──さっきまで、私が刺された時は、2015年になったばかりでした。冬です。
──はあ?
──私は、トキカケしたのでしょうか。

なんでトキカケなんて知ってるのか知らないが、どうも大真面目に言っているようだ。…だけど、いくらなんでもオカルトすぎる。私は別の可能性がないか、考えていた。襲われてから3年以上、ずっと伸びていた…そんなわけないか。李さんが、単に西暦を勘違いしている、とか…。

その内に李さんの顔がだんだん青ざめてきた。

──大変。今2018年なら、私のビザ切れています。パスポートも鞄に入ってる、盗まれました。
──それって、3年間どっか行ってて、いなかったってこと?お仕事先にも迷惑かけてない?
──大変。入管に捕まる。

外国人労働者としては、そちらの方が心配か。トキカケ…タイムリープなんてとんでもないことを言い出したわりに、意外と現実的だな、この人。

さっき名前を書いてもらったメモ用紙に目をやって、ふと気がついた。この名前、見覚えがある。

私がここに引っ越してきて間もない頃、何度かこの名前あてのダイレクトメールが届いていたのだ。前の住人が転送届をしてないんだな、と思って受取拒否をした。その時は中国人かな、と思ってたけど。

──あなたは、私の前にここに住んでた人なんだね。
──はい、だからここは私の家です。…私の家だった。
──2015年から今までいなかったなら、アパートの契約も切れてるよね。だからその後、私が入ったわけで。家にあったもの、大家さんが保管してないかな。

勤め先に連絡するにしても、大家さんに問い合わせるにしても、もう時間が遅すぎた。誰かに襲われて、家もお金もパスポートもないという人の良さそうな外国人を、ここで放り出すのは気が咎めた。だがここはやはり、警察に保護してもらうのが順当だろうか。

──家には、そんなに大事なものはありませんでした。…マリモ以外は。
──まりも??

予想外の単語が出てきて、一瞬何のことかわからなかった。

──えっと、あの、北海道のマリモ?
──はい。会社の人が、出張のお土産にくれたのです。珍しいので、大事にしていました。捨てられてしまったでしょうか。そこの窓際に、置いていました。

李さんは私の背後にある、キッチンの窓枠を指差して言った。当然、今そこには何もない。まるで飼っていた犬か猫でも心配するような調子だ。椅子に座っていてさえも見上げるほどの大の男が、せいぜいビー玉サイズのちっこいマリモの心配をしている…なんだか可笑しくなってきた。

──まぁ、よくわからないけど、明日確認してみようか。

他人を泊める準備などなかったが、まぁ夏場だし、床で寝てもらおう。
仮に騙されていたところで、どのみち盗られるような蓄えも大してなかった。特に色気もない、お金もない、40近いオバサンを襲う物好きも、そういないだろう。

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